ご由緒について
月讀神社由緒
古事記によれば、
イザナギの命が黄泉の国から帰られた時、
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において、
禊祓いされ、左目を洗われた時に、
アマテラスオオミカミ、
右目を洗われた時にツクヨミノミコト、
鼻を洗われた時に、
スサノオがお生まれになられた。
この3柱の神を三貴神と呼び、
他の大神とは別格と記されている。
月讀神社縁起
顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いにでる。
その際、人に月の神が神がかりし、「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月讀神社から分霊させ京都に祀らせた。
舒明天皇二年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月讀神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされたことで「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月讀神社にあると言われている。文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて弊帛を奉納し神税を古麻呂に支払う。
宝亀33年、暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった。そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月讀神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
國分郷古木村清月の社在り、延宝4年(1692年)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿あり、拝殿は西北西向きで茅葺梁行2間、桁行2間半である。
境内は東西25間余り、南北31間余り、周囲1町17間余り、山中参道16間。祀管榊原主藤原正益、定祭9月23日云々。式内大社の例により、神階を進められる。
霊元天皇延宝4年6月朔日、松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保、石祀及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には「奉ル備24座ノ内月讀神社御正體木鏡1面」とあり。
壱岐の月讀神社はもともとは壱岐の豪族の壱岐氏が、航海の安全を祈るためにお祀りしていたとされます。
その後、487年、大和時代に阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が遣任那使として、任那の国に使いで行った際に、壱岐の月読神が「私は月神である。私を京都にまつりなさい。その通りにすれば日本国中が幸せになるだろう。」と言いました。
阿閉臣事代は都に帰り、天皇にそのことを報告しました。
天皇はこれを受け入れ、壱岐県主の先祖 押見宿彌(おしみのすくね)を壱岐島から京都に呼び、嵐山に壱岐の月神を分霊して、月讀神社を祀りました。この嵐山の月讀神社は京都では最も古く「松尾大社」の南隣にあります。
その後、京都の月讀神社を中心にして、日本全国に神道が根付くようになりました。したがって、壱岐の月讀神社が全国の月讀社の「元宮」(もとみや)となるわけです。
このことから、当社は「神道の発祥の地」とされています。
当社では、月夜見命、月弓命、月読命の3柱をお祀りしております(いずれも同神)
(右)月読命
読むというのは月齢を数える事であり、日を数えることは暦(太陰暦)である。
したがって月読と、稲作、潮の満ち引きとは大変深い係がある。
(中)月夜見命
月夜というのは単につきのことである。
月は夜出るわけであるから月夜といった。
見は心霊を表す。従ってこの見は月を神格化した。
(左)月弓命
三日月は弓の形をしている。
そこから月読が月弓に音が変化するのに、伴って漢字も弓が当てられた。
【鎮座】
鎮座年数は不詳であるが、顕宗天皇3年(487年)にはすでに存在していた。
【御神徳】(暦・潮の干満など月にまつわる全ての行い)
・生命の誕生(安産、健康、病気平癒)
・漁業の繁栄(航海安全、大漁)
・農業の誕生(自然界では旧暦の暦と共にある)
・商売繁盛当社では、月夜見命、月弓命、月読命の3柱を祀っております。