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壱岐神楽について
神楽は、古くは神遊びとも称され、神々に捧げ奉ると共に、人々も楽しむものであります。場内を祓い清め、穢(わざわい)を祓い、神を迎え・神と遊び・神を送るものです。
壱岐の神楽の期限は、今から650年前の南北朝の時代に起こったと言われており、文献によれば箱崎吉野家の古文書の中に、室町時代初期には既に神楽舞の人数の記述があります。
これは、壱岐の風土に根ざした先人達のたゆまぬ創造意欲から独自の舞文化が生まれ、角地区の神社の大祭に奉納され、永く島民、氏子により大切に支えられた歴史が在ります。昭和62年には国の無形文化財に指定され、壱岐の宝から国の宝へと大きく文化価値が高まってきています。
壱岐神楽(俗に壱州神楽とも言う)は、古い伝説と歴史もつ神事芸能で、よその地方尾神楽組とか神楽師等の奏する神楽とは違い、神楽舞も楽(音楽)もみな神職ばかりで奏せられるもので神聖視され、信仰される貴重な無形文化財である。
その起源も遠く南北朝のころから起こったと言われているが、これを確かめる事は困難である。しかし、芦辺町箱崎八幡神社の社家に伝わる古文書によると、永享7年(1435年)11月に神楽舞、人数の事を書いたものがある。これによると、室町時代の初期には既に行なわれている事を知ることができる。
もとより現在行なわれているような整ったものではなく、その勤法も両部習合の勤法であったものを寛文初年(1661年)に唯一の式によって行なったという記録がある(吉野家古條集録)。
爾来年次を得るにしたがって、神楽歌も庶民の理解できることを用い、神楽舞の手振りなども逐次改定修補を加えられて、現行神楽の基礎が作られた。
また、この壱岐の国は、文明4年(1472年)肥前(佐賀県)の城主波多氏の領有となり、その後100年を経て元亀2年(1572年)平戸(長崎県)松浦氏の領有となったのであるが、壱岐の社家では毎年正月5日、年頭の賀式を壱岐の亀丘城(壱岐守護 波多氏)に致し、3月に入って肥前岸岳城に参り領主に礼をとり、また11月28日には領主の館に於いて、竈祭(かまどまつり)の大神楽を奏するのが例であった。
平戸松浦氏の領有後もこれを続け、神主の棟梁は壱岐国内の神主を率いて、平戸松浦氏の居城に行きこの竈祭りの大神楽を奏した。
領主 第29世 肥前守 松浦鎮信公の時、平戸『七郎宮』の祀官『大鳥居刑部』(壱岐市勝本町立石出身)の子、橘美津与志(三喜とも書く)は、藩主にその才を認められ16歳のとき、名を帯びて京都の吉田家に就き国学・神道学を修め、全国1ノ宮を巡拝して神社の実態(この時壱岐の式内社の調査も行なわれた)や神楽・祭りの形態等を調査して、縁故深い壱岐神楽を基盤として平戸神楽を創編したという。
そこで、壱岐・平戸の2つの神楽が大成した。従って、壱岐神楽・平戸神楽の共通点も同じ平戸藩の地であるからというばかりでなく、こうした点にゆかり浅からぬものがあったと思われる。
この壱岐神楽は、その規模により幣神楽(4番)、小神楽(11番)、大神楽(22番)、大神楽(般戸神楽とも言われ37番の演目からなっている。